bunbunの記

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入浴的な哲学

 

無数の自分を想像してみます。

 

たとえば、明日からの1週間、職場に通って仕事をするのは単一な自分ではなく、その時々に違う自分であると考えてみます。

 

ひとつの時には自分一人しかいませんが、つぎの時には別の自分がいるのですから、時間を細分化すればするほど自分の数が増えていきます。

 

その無数の自分が順番にひとつの仕事をこなしていくというわけです。

 

最近酒の量が多いから、明日から少し控えようと考えますが、たいがいは上手くいきません。

 

でも、それは当然のことなのだろうと思います。

 

今「控えよう」と思っている自分と、明日の自分とは同じであるようでも実は違うのですから。

 

「禁酒しよう」とか「1杯だけでやめておこう」などというのは、明日の自分にとっては、他人からの強制のようなもので、強制には抵抗したくなるものです。

 

この場合は「明日からはお酒をおいしく飲もう」と考えるのが有効であると思います。

 

(効果のほどはただいま実証中です)

 

あることに上達したいと思っているとします。

 

単一な自分が修練を重ねていって上達していくと考えるのと、これからのその時々の無数の自分がそれぞれに様々な修練を行った集積によって上達していくと考えるのとでは、結果が全く違うと思うのですが・・・

 

時間軸での無数の自分を考えてみましたが、これを空間のなかでの集団として考えれば『学び合い』に到達します。

 

以上は、さっき入浴していて考えたことです。お湯につかっているといろんな考えが浮かんできます。

 

でも、それを文章にするのは難しいですし、だんだん書くことへの根気がなくなっていって、文章もしだいによりあいまいになってきました。

 

なるほど、私のはしょせん入浴的な哲学なんですね。

 

でも、お風呂でいろいろ考えるのは気持ちがいいです。