bunbunの記

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ツイッターの印象

 

「遅々としたものかもしれないが、着実に仕事を進めているぞ。今日もよくやったお前。(自画自賛)」

 

「ご苦労、ご苦労、まあ一杯飲め。(ひとりごと)」

 

「こんばんは。「石見の城」は、地元の同級生から1年ぐらい前に、こんなサイトがあったぞと聞いて拝見してました。こんなところでお会いするとは・・・・よろしくお願いします。」

 

「いやー、びっくりしたな。こういう出合いもあるんですねー。2yoshiさん。脈略もなく突然ふってみたりして。」

 

「フォローのコツもつかんだような。現在45フォロー、追いついてきましたよ。」

 

「そろそろ今日のブログ書かなくっちゃ。今日の作文の課題はなんですか?先生!(いまのところかくことがない・・・)」

 

「う~ん、ブログの記入画面をにらみながら、書くという行為について考え込んでしまった。(ちょっと、オーバーでした)気分転換に風呂入ってこようっと。でも、今日は書くことがないのは確か・・・」

 

ピアノバーですね。いつか、お邪魔しますね」

 

・・・職場での仕事を終えてからさっきまでの間に私がツイッターに書き込んだものです。

 

私が書いたこれらのつぶやきのような短い文章はツイッターへの登録により作成された私のホームページに時系列に表示されます。(書き込める字数は1回あたり140文字までと制限されています)

 

そして私がフォローした人たちが各自のホームページに書き込んだ「つぶやき」も、私のホームページに、私の「つぶやきと」一緒に同じく時系列に表示されていきます。

 

(フォローとは自分のホームページに特定の人が書き込んだ「つぶやき」を常に表示させるようにすることです)

 

フォローは何人でもできて、フォローした人の数が多いほど、自分のホームページに表示される「つぶやき」は多くなります。(つぶやかない人ばかりをフォローしない限りは)

 

たとえば、私が午後1時と午後2時にそれぞれ1文章ずつ書き込み、その1時間の間に全世界で100人の人が「つぶやき」を書き込んだとした場合、私がそのうちの50人をフォローしていたら、私のそのふたつの書き込みの間に、その50人の「つぶやき」が表示され、100人全員をフォローしていたら、100人の「つぶやき」が表示されるという具合です。

 

50人近くフォローしてみると、私のツイッターホームページには、自分自身の「つぶやき」と何人もの人の「つぶやき」が、それぞれの間に脈絡もなく並んでいきます。

 

(「つぶやき」に対して返信もできるのですべてにつながりがないのではありませんが、そのやり取りに時間的な間隔があれば、他の何人もの人の「つぶやき」がその間に割り込んできたりもします)

 

だから冒頭に書いた、今日の夕方からの私のそれぞれの「つぶやき」の間には何人もの他者の「つぶやき」が無情にも、割り込んでいるのです。(それは自分の独り言と一緒に、何人もの会話の断片が次から次へと耳に飛び込んで来るような状況とも言えるのでしょうか)

 

でも、無情と言っても、けっしてマイナスの意味ではないのです。

 

私はツイッターに次の引用文のような印象をもっています。

 

”彼はそうやって、音をその生成の自然状態に限りなく近づけていこうとしたわけだ。音の生成状態を産み出すために、ジョン・ケージはある時期、偶然性の音楽というものを強調した。ざわめきたつ音の生成空間を稠密なものにまとめあげてしまういっさいの音楽構造から逃れるために、易や神占にも似たチャンス・オペレーションを使って、すべての構造に先立つ生成の音空間にたどりつこうとしたのである。(中略)ケージの音楽が作り出しているような生成の場は、むしろシンプルで軽快で、すがすがしい希薄さを備えている。(中略)それは人間が作り出した濃密でソリッドな文化空間のいたるところに、無数のこまかな風穴をうがっていくような力を持っている。(中沢新一「雪片曲線論」より)”

 

 

以上、ちょっと、とってつけたような引用ではありましたが・・・今日もブログを書き終えました。(ふー)