bunbunの記

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個人的な日記(いつも以上に)

 

父 〇〇 儀 十二月二日午後五時四十八分 七十七歳を一期としてお浄土へ還らせていただきました

 

隣の町に私のおじ・おばの家があります。

 

そのおじ・おばの家のすぐ近所に私の同級生の家があります。

 

その同級生は、高1と高2の冬、私の部屋に下宿していました。

 

私と彼は寝食をともにしていたというわけです。

 

その後、私と彼は別々の大学を卒業して、それぞれの町の役場に就職し、私はその2年目に町立の知的障害児の施設に異動となりました。

 

その施設は隣町の山の会と一緒に施設利用者の登山をしていて、私も仕事として同行しました。

 

山の会の会長は、その同級生のお父さんでした。

 

1年目は鳥取県大山に登りました。

 

2年目は大分県九重山に登りました。

 

3年目は愛媛県石鎚山に登りました。

 

大分へ行くフェリーでは会長に、自分の靴を枕にして船の甲板に寝ることを教わりました。

 

石鎚山へは、会長がマイクロバスを運転して、私がワゴン車を運転しました。

 

二人は、フェリーで四国に上陸した後、明け方に登山口に着くまで夜通し運転をしました。

 

それから、施設の活動とは別に、山の会の人と一緒に北アルプスにも登りました。

 

下山後の温泉宿での夕食の後に、連れられて会長と缶ビール片手に、露天風呂に入りました。

 

弔辞は保育所の所長が読みました。

 

故人は、定年退職後の13年間、その保育所の活動のお手伝いを続けていたとのことでした。

 

弔辞を読む所長の横には、代表しての3人の園児が並んで立っていました。

 

葬儀の最後には、数年前の町村合併により同じ町の役場職員となった、かっては寝食をともにした私の同級生であり、故人の長男である喪主が挨拶をしました。

 

「子どものころ父に海に連れて行ってと言うと、軽トラの荷台一杯になるほど友だちを誘って来いと言ったり、自分が大学へ入学するときには、勉強なんかすることはない、とにかく友だちをいっぱいつくれ、などというように、仲間を大切にする父でした。」

 

葬儀が終わり、故人の家の近所にある、私のおじ・おばの家に行きました。

 

隣県に離れて暮らす、私の従兄妹の二人もいました。

 

二人ともに葬儀に参列するための帰郷でした。

 

近所のおじさんというだけではなく、子どものころに(海に山にと)ずいぶんお世話になったからだということでした。

 

故人の同級生でもあるおじは、葬儀のために集まった(一人欠けた)同級生たちと食事に出かけました。

 

後に残った、おばと数十年ぶりに会った従兄妹と私とは一緒に食事をしました。