「随意運動を手にするためには、既存の運動イメージに沿うような体の動かし方を練習するしかない、というのは間違いだ。それとは逆に、運動イメージのほうを体に合うようなものに書きかえるというやり方もある。私はこのような自分の経験を通して、規範的な運動イメージを押し付けられ、それを習得し切れなかった一人として、リハビリの現場のみならず、広く社会全体において暗黙のうちに前提とされている『規範的な体の動かし方』というものを、問いなおしていきたいと思っている」(熊谷晋一郎「リハビリの夜」より)
朝刊の書評を読む。
評者は養老孟司。
「著者は32歳の脳性麻痺の医師。幼少の頃は、もっぱら自分のリハビリに明け暮れていた。普通の基準からすれば、身体の動きがなにしろ不自由で、歩くことすらできない。だから、人生のほとんどが動くことの修練に費やされたことになる(養老孟司)」
その長年にわたる修練の結果は「規範的な運動イメージを押し付けられ、それを習得し切れなかった」ということなのであろう。
そして規範的な運動イメージの習得をあきらめた後に「運動イメージのほうを体に合うようなものに書きかえるというやり方」を見出していったのであろう。
書評の横には、「オリジナルの”私の動き”」で、コップを持っている著者と採血をしている著者の2枚の写真が載っている。
たしかに「普通の人はこうした”障害”のある人を目にしたとき、どこか”目をそむけたくなる”気持ちが起こる(養老孟司)」ような写真ではある。
「著者はその(目をそむけたくなる気持ちの)基礎にあるものを”規範化”された動き、規範化された身体と表現する。規範に外れたものを排除する。それは社会的にはごく当然の心情であろう(養老孟司)」
「どの社会にもそれなりの”規範”があって、そのなかでも身体は無意識の規範をいちばん強く帯びてしまう。現代はそうした規範性がじつはきわめて強い。現代社会は昔に比べて自由だと思っているのは意識で、だから無意識つまり身体はより強く束縛されているのかもしれない(養老孟司)」
「広く社会全体において暗黙のうちに前提とされている『規範的な体の動かし方』というものを、問いなおしていきたい」
私もそう思っています。