昨日、神戸女子学院大学の内田樹教授の最終講義が行われた。
そして、今日、その内田樹教授が自身のブログに、その最終講義についての思いを書いておられた。
不遜ながら、抜粋して掲載する。
まさしくこれは、『学び合い』の考えに基づいて、これからのわが身の生を全うしようとする、我々自身についてのことである。
律法の中でどの掟がもっともたいせつかというパリサイ派の律法学者の問いにイエスはこう答える。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これがもっとも重要な第一の掟である。第二の掟もこれと同じように重要である。隣人をあなた自身のように愛しなさい。律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている。」
(中略)
おそらく私たちが「宗教」という名で総称している心的態度のもっとも本質的なものがこの聖句には託されている。
「超越的な境位」と「具体的な境位」を結びつけるのは「ここにいる、他ならぬこの私である」と名乗ること。
神のいます超越的な世界と、隣人のいる現実的な世界は、ここにいる、この私が、その生身を捧げることによってのみ架橋される。
超越的境位は、それだけで自存することができない。
(中略)
レヴィナスはホロコーストの後に、民族の最大の災厄のときにも天上的な介入を行わないような神は信じるに値しないという理由から信仰を捨てようとした西欧のユダヤ人たちに向かってこう告げた。
あなたがたはこれまでどのような神をその頭上に戴いていたのか。
それは善行をしたものには報奨を、悪行をなしたものには懲罰を与える、そのような単純な神だったのか。
だとすれば、それは幼児の神である。
(中略)
神を信じるものだけが、神の不在に耐えることができる。
成人の信仰とはそのようなものである。
(中略)
それは超越的な世界とこの現実の世界を媒介するのは、「公正で慈愛に満ちた世界を構築する仕事を、まず自分の足元から始めるひとりの生活者である」ということである。
私たちは私たちの手持ちの資源しか差し出すことができない。
そのささやかな資源を以て「世界をすみごこちのよいものにするための人類史的な作業」のどの部分を自分が担いうるかを吟味すること。
そのようなしかたで自分の有限な知恵と力を工夫して使うことのできる人たちを世に送り出すこと、それが遠い中東の荒野に発祥した信仰が長い歳月と遠い距離を踏破して、この列島に着床してかたちをとったこの学舎の聖史的使命ではないかと私は思うのである。