bunbunの記

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民俗学と大元神楽と最終学年

 

一昨日の夜から昨日の朝に掛けて、隣の市の江尾(えのお)という谷間の集落で行われた大元神楽(おおもとかぐら)を長男と一緒に見に行きました。

 

大阪の大学で民俗学を専攻している私の長男は、この季節になると毎年帰省して、私の町や周辺の村々で4年から6年に一度行われるその神楽を見ています。

 

その長男も早いもので4回生になりました。

 

来春には卒業して社会人となります。(予定ですが)

 

その長男が初めて明け方まで大元神楽を見たのは小学6年のときで、地元で行われた神楽でした。

 

翌年の中学1年のときは、隣の市の市山(いちやま)という町での大元神楽だったのですが、市山の神楽は他の地域が形だけになっている神懸かりの神事を今でも昔のままに継承している本格的なものでした。

 

中学2年のときは、岡山県新見市まで車で行って、13年に一度民家で行われる荒神神楽を朝まで見ました。

 

中学3年のときは、隣の地区で行われた大元神楽に行ったのですが、前の年まではいつも一緒だったのが、このときは私一人で行っていたら、後から自転車に乗って来ていたので、親としては子の成長を感じたりもしたのでした。

 

高校3年のときは大学受験を控えていたので、さすがに行ってはなかったと思うのですが、高校1年のときは地元の大元神楽が4年に1回なので、それには行っているはずです。

 

それから大学に進学して、秋の神楽の季節になると帰省しては(思えば毎年いつも、午後に帰ってきて、徹夜で神楽を見て、帰宅して仮眠して、その午後には大阪へと出発していました)、大元神楽を見たのでした。

 

さて、ここまで長男の神楽鑑賞歴を書き連ねたのは、次のことを書くための(自分としての)前段なのです。

 

今回の江尾の大元神楽には、息子の大学でのゼミの担当教授と息子の同回生でもある同じゼミの学生と大学院生の3人も、大阪から新幹線高速バスとタクシーを乗り継いでやって来ました。

 

大元神楽は先に書いたように神懸かりに至る一連の神事を今に伝える全国でも稀有なものとして、国の重要無形民俗文化財に指定されているのですが、おそらく先月に見た大元神楽についてゼミで発表すると長男は言っていたので(今年は2度、大元神楽のために帰省したのです)、その発表の際に次の月にも別の大元神楽を見るために帰省するということを話したことから始まった今回の来訪だったのではないかと思うのです。

 

単独で帰省した長男と一緒に車で、お宮に行き神楽が始まるのを待っているときに、その3人は到着しました。

 

それから一緒に明け方まで神楽を見て、早々に大阪へと帰る3人と別れて、長男と一緒に帰宅しました。

 

それだけのことなのですが、もうちょっと話は続きます。

 

この8月25日にこのブログで「調査団の来訪」という文章を書きました。

 

その最後にこう書いています。

 

『最終日の24日、午前中の調査を終えた調査団は山の上の宿に戻り、そこで昼食をとり、ささやかな解散式を行って、3日間の合同調査が終了しました。

それから調査団は、初日に降りた高速バスのバス停へと向かうためにマイクロバスに乗ったのですが、広島市へと帰路に着く人たちとは逆方向の日本海沿岸の温泉地を訪ねるK大学のM教授を乗せて、私は皆が向かったのとは違う、車で15分ばかりのところにある高速バスのバス停へと向かいました。

K大学は、今年4回生となった私の長男のいる大学でもあって、M教授は民俗学を専攻している長男が(ゼミは違うのですが)お世話になっている人でもあるのです。

長男がK大学に入学が決まり、そこで民俗学を専攻するということを知った私の先輩が、その民俗学の学科にはよく知っているM教授がいると話してくれていました。

それはもう3年以上も前のことです。

そんなこともあっての今回の合同調査への私の関わりだったのですが、高速バスが来るまでの時間、バス停の近くのかっての宿場町を一緒に歩いたりしながら、そのM教授と話をしていることが、これもまた不思議なことであったのです。』

 

そして、それからおよそ3ヶ月後には私が暮らすこの島根の辺鄙な山間地において、今度はゼミの教授たちと出会うことになったのです。

 

もちろん、8月の調査団の来訪と今回の神楽への来訪とは、何の関係もないのです。

 

不思議なことです。