平成3年3月3日に結婚したので、来年の3月で25年になります。
結婚式は地元のお宮で行いました。
その前の夜に、おそらく親族の皆が集まった夕食での酔いの勢いもあったのでしょうが、私はあなたに電話をしました。
「明日のお宮での結婚式なんだけど、みんなで参道を歩いてお宮へ向かおうと思ってるんです。よかったらビデオに撮りませんか?」
私の親ほど年齢の離れたあなたとの付き合いは、結婚の前の年(平成2年)の4月ごろから始まりました。
5年間勤めた町立の知的障害児施設から地元の公民館に異動した私を、あなたはいろいろなところに連れて行ってくれました。
郷土史の研究会を主宰し、町の文化財審議委員でもあり、自身の仕事の延長として地元に関わる様々な書籍の出版にも精力的に携わっていたあなただったので、行動を共にすることによって、この田舎町で普通に暮らしていては接することができないような(一風変わった)人たちと交わる機会を得ることができました。
出勤前には、よく印刷会社の地元支店長だったあなたの小さな支店に立ち寄っては、コーヒーをご馳走になったりしたものです。
(20代後半のまだ若かった自分には、夢もそれに対する期待も大きかったのです。これからわくわくするような何かが生まれてくるのではないかと思っていたのです)
支店に遊びに行ったときに、山の上で喫茶店かなにかをやろうと思っているんだと、建物の外観図のスケッチを見せてもらったのは、おそらく私が結婚して1年か2年ぐらいのうちのことだったのではないかと思います。
そのときには、正直、また途方も無いことを考えてるなあと思いました。
でも、それからあなたは、会社を退職して、山の上に自然食料理店をつくりました。
その一方で私は、若さゆえの夢の何かを一つ二つと失いながら、2人の子供の父親にもなりました。
今日の朝、この盆地は季節はずれの雲海で覆われたのだそうです。
自分の希望で、病院ではなく、自分がつくった山の上のお店の一室で療養を続けていたあなたは、奥さんと一緒に眼下に広がる今朝の雲海を窓越しに眺めたのだそうです。
それから、この数ヶ月において常時のことになっていた微睡みのなかで息を引き取ったとの事でした。
話は我々の結婚の日に戻ります。
地元のお宮の参道の両側には何本もの千年杉と呼ばれる巨木が並んで立っています。
自動車が行き来するアスファルトの車道からすぐの石段を上って、その参道はお宮へと続いています。
当時は、式から披露宴まで行うことができる地元の観光宿泊施設ですべてを行うのが主流になっていたし、たとえ昔ながらに地元のお宮で式を行うにしても、車で境内に入らずに参道を皆で歩いて向かうなどということはちょっとないのではと思ったので、あなたにビデオで撮影してみないかと電話をしたのです。(ちなみに、披露宴にはあなたも招待して来ていただきました)
あなたなら面白がってくれるのではないかと思ったのです。
でも、そんな電話はしたものの、酔いに任せてのことだったし、特に期待をしてはいませんでした。
当日は、とてもよい天気でした。
紋付袴の私と白無垢の新婦とを先頭にして、その後に続く礼服の親族などと共に石段を上ると、参道のずっと向こうのお宮の敷地へと入る手前の随神門の下で三脚を立てて我々をビデオに撮影しようとする、あなたの姿が小さく見えたのでした。
この春に私は長年勤めた職場を早期退職しました。
そして、ひょんなことからあなたの山の上の自然食料理店でアルバイトをすることにもなりました。
同じこの春から、息子夫婦に代替わりした店でしたが、あなたは5月のゴールデンウィークなどには療養中の部屋から出てきて「あのピアノ演奏(知る人ぞ知る)」などもしていました。
気がついてみれば、あの日、あの参道の向こうに立っていたあなたのそのときの年齢に私はなっています。
あれから25年。
この春からの、山の物とも海の物ともつかないような私のこれからの最初の年に、あなたの料理店で働くことになり、そしてそれをやり終えた後に(お店の立地的にもアルバイトが必要なのは11月までなのです)、あなたは逝ってしまいました。
(平成27年12月13日、早朝、縄文村店主、駅場春樹氏逝く)