bunbunの記

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H氏へ

 
午睡の後、職場へ行き軽く書類整理。帰宅途中に商店街事務局へ立ち寄り、クラブ紹介のための写真と手紙を入れた封筒を郵便受けに入れる。手紙には「・・・構成の都合で人物が小さくなっても構いません。なごやかな雰囲気が伝わるようであれば、それ以上望むことはありません・・・」と書いている。

 

いつもクラブで利用している体育館の前を通ると、体育館の入り口に私のクラブにも来ている女の子が立っている。そうか、今日はH氏のバスケクラブの日。(この地域には小学生が対象で私も指導者として加わっていたバスケクラブと、小学生から中学生ぐらいまでが参加しているH氏のバスケクラブがあり、私のクラブを入れて、それぞれ練習日が違うこともあり、3クラブ全部に参加している子もいます。ただし私のクラブはバスケ専科ではありませんけど。)

 

毎週土曜日の午後5時開始のH氏のクラブ。開始時間にはあと15分ある。これまたかってこのクラブにも通っていた私は体育館に入る。「始まるまで」と言いながら、すでに来ているH氏にボールを借りて自主トレを10分ばかり。そしてH氏にブログを始めたことと、今日はここでのことを書こうかなと話す。5時、体育館を出て帰宅する・・・。

 

H氏のクラブには息子が5年生になってから小学校を卒業するまでの2年間、毎回のように息子と一緒に行き、練習が終わるまで私は片隅で一人、ドリブルをしたりしていました。

 

息子が卒業して1年が経ったころある宴会でH氏と同席になりました。その席で誘われた私は、今度は単身で1年ぶりにH氏のクラブにクラブ員として通い始めました。(ちょうど同じころ、私は『学び合い』に出会い、自分のバスケの指導を一変していました。)

 

最初のころは、練習後半に行われる試合では、小学生低学年の相手をしていたのが、いつの間にか中学生に交じって行うようになっていました。

 

夏も過ぎようとしているある日のこと、その日は何かの都合で保護者が早く迎えに来ていました。その保護者たちを前にした、その日の試合の自分はガタガタでした(とは言え、中学生のときから、いつでもへなちょこ選手でしたけど)。いい歳して、いったい自分は何をしているのかと思いました。

 

そのころ、古武術を取り入れた高校バスケ部の練習をテレビで見て関心を持っていた私は、一本歯の下駄を購入していました。そして、古武術の研究家である甲野善紀さんが隣県に来られるのを知り、息子とともにその講習会に参加しました。(去年も行きました)

 

翌年の3月、独立するために4年間続けたバスケクラブを辞めました。そしてH氏にもメールを送りました。

 

「この1年のこと、とても感謝しています。まさか中学生とゲームをする日々があるとは思いもしませんでした。今日○○クラブを辞めることにしました。発展的解消です。次は自分がやるべきことをやります。H氏のバスケもお休みします。今度、H氏のバスケへ行く時は道場やぶりとして行きます。-まじです-。ありがとうございました。それではまた。」

 

(蛇足ですが、内田樹さんは甲野善紀さんを師の一人とされています。また、「居つかない」とか「流れを追い越さない」とか甲野さんが言われることは、『学び合い』にも通じると、私は思っています。)