S.Tさんを知ったのは今から18年前に当町で行われた7日間のキャンプにおいてでした。
その県主催のキャンプには、私は町の教育委員会での社会教育担当者として、そしてS.Tさんは県内子ども会のリーダーとして参加していました。
S.Tさんはひげ面の顔にメガネをかけた青年で、県内の大学を卒業した後も大学に残り、時には子ども会活動のお世話をしたりしていたようです。
その次の年には、今度は町単独で行ったキャンプにS.Tさんを招きました。
S.Tさんは県主催のキャンプで知り合った地元の農家の人と親しくなり、何度もこの町にやって来ていたようで、突然我が家を訪ねて来たこともありました。
それから数年後の平成10年12月のある日、我が家に1枚のはがきが届きました。
「S.T逝去につき、賀状は・・・」という内容でした。
そのはがきの差出人に電話をするとS.Tさんのお母さんが出て次のようなことを話されました。
「Sは数ヶ月の入院の後に旅立っていきました。Sの住所録の人たちにはがきを出しました。
今はSの住んでいた部屋でSが残していった本を読んだりして過ごしています。Sがよく話してくれた、出雲平野の初雪の朝の景色を見ることができたら、関東の新しい土地へ移動しようと思っています」
その夜、お母さん宛に短い手紙を書いて送りました。その後、関東から返信の手紙が届きました(届いたと思っていました)。
さらに数年後のある日、思い立ってS.Tさんのお母さんへ手紙を書きました。
そして、関東の住所を見ようと探しましたが、手紙は見つかりませんでした。
関東の土地からの手紙など初めからなかったのかもしれません。
送ることができなかった手紙を載せます。
前略
ひょんなことから2年ほど前、今春小学校を卒業する息子が所属しているバスケットボールチームで指導をするようになり、現在に至っています。ずっとそのようなことに関心は持っていましたが、まさか自分が子どもたちになにかを指導することなどがあるとは、その時まで思いもしませんでした。
バスケットボールの指導とはいえ、自分が受け持っているのは2~3年生の小さな子どもたちで、私はバスケットボールの技術を教える能力を持っていませんし、またそのつもりもなく、ボールを使ったり、使わなかったりして、常に面白い練習方法はないものかと、練習が創造的な場となるようにと、工夫をしながら週2回の指導を続けています。2年間も行えば自分なりのスタイルもでき、今日もある手応えを感じながら練習から帰宅し、入浴をしながらSさんのことを思い出していました。
Sさんは10年以上前、私が町の社会教育の担当をしていた頃、当町で行われた県主催の長期キャンプで知り合いました。その後2~3回こちらでのキャンプ等行事のお手伝いをお願いした程度のお付き合いではありましたが、忘れられない印象を残して、今となっては文字どおり去って行かれました。
ある日の体育館でのこと、Sさんが子どもたちを並ばせて、順番にジャンケンをしていく。そこには、何かひとひねりの工夫があり(どんなものであったかは覚えていませんが)、子どもたちが次から次へとSさんとジャンケンをしては、列の後ろに回って、また自分の番が来るのを待つ。そんな単純なゲームが何度も何度も繰り返され、繰り返されるほどに子どもたちは生き生きとし、行列全体が熱を帯びてくるようであった・・・。
こうやって自分が子どもたちを相手に行っている練習の内にも、Sさんの精神が息づいているような気がしております。
以上、Sさんのご仏前にという気持ちで、お手紙書かさせていただきました。
どうぞ、ご自愛くださいますように。また、ご返事の手を煩わされませんように。
追伸
Sさんのことでは他に、突然、探して来られ、我が家の玄関にケーキを持って現れたあのひげ面の顔が。そして、お母さんが電話でお話になられた、新雪の出雲平野の朝の風景(見たことはないのですが)などが浮かんできます。
平成18年3月