「バー〇子」で話しながら思いつきました。
「業」は「Go」であると。
だれもが「業」をもっているから生きている。
生きているから「業」をもつ。
(「業」って仏教用語としては「行為」という意味らしいです)
業の深い人がいる。
でもその人に相対する私も業をもつ。
私の業も深い。
私も業をもつからこそ、同じく業をもつ他者との関わりが生まれる。
業がなければ関わりはない。
業がないのは行為する主体もないということ。
主体がないというのは生きていないということ。
生きていないということは、歩んでいないということ。
なるほど、だから「業」とは「Go」でもあったのか。
ならば・・・
業と業との関わりを縁という。
生きているものと生きているものとが交わることを縁という。
「いくら?」
と聞くことがあるらしい。
それも縁。
その際の「いくら?」とはお金のこと。
お金が、あるものとあるものとの仲介をする。
なるほど、だから貨幣の単位を「えん」と呼ぶのか・・・
・・・今宵も「バー〇子」での妄想は尽きない・・・
(おそまつでした)