「そんなところに、ある日ふらっとやってきて、親の価値観に風穴をあけてくれる存在、それがおじさんなんですね。(中略)おじさんは遊び人で、やや無責任な感じだけど、本を沢山読んでいて、若い僕の心をわかろうとしてくれ、僕と親が喧嘩したら必ず僕の側に立ってくれるだろうような、そういう存在ですね。おじさんと話したあとは、なんだか世界が違ったふうに見えるようになっちゃったト、そういう存在が、まあ、僕におけるおじさんというイメージなんですね」(伊丹十三、1981年「文藝春秋」7月号)
『伊丹十三の本』(「考える人」編集部編)を読む。
本のなかの伊丹十三の年譜を読んでいて、大学の卒業式の数日前に映画館で「家族ゲーム」(1983年、森田芳光監督)を観たことを思い出した。
あの有名な(若い人は知らないだろうが)家族4人が横一列に並んで食べる家庭での食卓の場面。(父親役が伊丹十三だったはず)
その家族がいる団地に向かって、松田優作演じる家庭教師が船に乗ってやって来る。
その家庭教師もその家族にとっての「おじさん」だったのだ。
私も10代後半から20代はじめにかけて、たくさんの「おじさん」に出会ってきたのだろう。
伊丹十三も、これまで意識はしなかったけれどそのうちの一人だと、本を読みながら思った。
もうすぐ新しい年がやって来る。
年が明けると、1日は役場職員と、2日は小学校同窓生と、3日は集落の人々と、5日は消防団員との、行事とそれに続く宴会がある。
これが私にとっての新しい年の始まり。
それを思うときに、心のどこかで「おじさん」の到来を願っているのは、現実逃避なんだろうか?