bunbunの記

カテゴリー クラブB&J、活動の様態、私的な事々、非日常的な、奇妙な偶然、その他

きのうのつづきのはなし(ほとんど引用)

 

今日の昼休みには、数年前に世界遺産に指定された石見銀山の街にある、中村ブレイス株式会社の社長のインタビュー記事をネットで読みました。

 

”故郷に一度帰った時、過疎化が激しい大森町起業して、地域を勇気づけようと考えた。不安視する人もいたが、米国での経験と強い運、そして何よりも、やる気を持っていた。1974年12月20日、中村ブレイスは産声を上げた。”

 

1974年といえば私は13歳。俳句をやる親父が大森銀山(当時は石見銀山をそう呼んでいた)で行われる句会に参加するのに付いて行ったのは、そのころのことだったと思う。親父が句会に参加している間、私はカメラを持って、とても寂れたその街を歩きまわった。

 

”自宅近くの古い納屋を改装して創業した。たった10坪の作業場。「中村ブレイス」と書いた看板を父親と一緒に掲げた。社名の「ブレイス」は「勇気を与える」とか「支える」という意味。いつか世界の人たちに喜ばれる物を大森町から作るぞとの志を込めた。”

 

私が今やっているクラブは、2年前に当時中2だった男の子と2人で始めたようなものだった。その名は「クラブB&J」。本名は「場と術の会」。

 

”でも現実には、来る日も来る日も仕事がなかった。最初の1カ月の総売り上げは伯父に作ったコルセット一個の12,300円。コルセットを身に着けた伯父がバスのステップを上って「俊郎や。このコルセット、楽なことよ。近所の人に紹介してやるからな」と大声で話した。これが最初の仕事で、今も忘れない。1974年のクリスマスごろだった。”

 

そのクラブを始めたころには、誰も来ない日もあった。来ても2~3人。でも、ある日曜日にスーパーマーケットで同級生の奥さんとその子どもたちに出会ったのが、さらに参加者が増えるきっかけだった。

 

山陰の病院を開拓しようとしたが、厳しかった。病院の業界はしがらみが多く、なかなか新参者を受け入れてくれない。アポイントを入れると何さまだと思われて逆に失礼だから、飛び込みしかなかった。医師の紹介状に頼らず、名刺を持って歩いたが、玄関払いが続いた。銀行もお金を貸してくれなかった。”

 

4年間所属していたミニバスのクラブを飛び出したばかりだったので、ミニバスの子どもたちを誘うのには抵抗があった。そして、今の子どもたちは誰もが習い事などで忙しいので、自分のクラブに誘ってさらに多忙にしてしまうことにも。だけど、結局は自信がなかったということなんだけど。

 

”「黙々と 小さき歩みや かたつむり」。そんな時、父親がこんな言葉で励ましてくれた。一歩一歩少しずつ売り上げを上げていけばいいと言ってくれた。涙が出た。絶対やってやるぞと誓った。”

 

米子市山陰労災病院にあいさつした時に契機が訪れた。ここで評判を得たことが大きかった。「中村ブレイスは良い仕事するらしい」と口コミで広まった。徐々に山陰に販路が広がり、広島にもうわさが広まっていった。口コミなんて、と思っていたけれど、やっぱりある。山陰労災病院からの一点突破だった。” 

 

クラブを始めて半年がすぎたころ、中学校の体育祭に遊びに来ていた小学生の女の子をクラブに誘った。彼女は2年前にミニバスのクラブで相手をした子で、その春にそのミニバスのクラブをやめていた。そして、次のクラブの日に、同じく私がミニバスクラブで相手をしていた子どもたちを何人も連れてその子はやって来た。

 

”努力してこつこつやれば、日は当たる。今、製品開発は、どの業界も結果を急ぎ、スピードばかりが求められている。私は慌てずにやらないといけないと思う。開発の原点は、一人一人の患者に喜ばれる物を作ること。遠い道のりのようでも、それが大きな発展への一番の近道だと思う。”

 

”ただ売上高はそれほど増えていない。義肢装具は販路は広いが、販売量は少ないニッチな産業。大手は参入しない。採算を度外視してまでも私が世界に打って出たのは、若い社員を育てるためでもある。自分たちの作った商品が海外で使ってもらえれば、社員は誇りと自信を持つようになる。それがさらなる成長につながると考えている。”

 

”創業当初は、全員がまったくの素人。さらに個性が強い社員ばかりだった。私が営業に出掛けている時は何をしているか分からない状態。過疎地では人を選びようがなく、来てくれる若者を雇っていた。”

 

”私は手取り足取り一から教えた。厳しく、遠慮なくしかり飛ばした。病院用の装具は特に責任が重く、信頼ある物を納めないといけない。せっかく完成したコルセットでも「これじゃあ不十分」と社員の前で私がはさみで切り刻むこともあった。”

 

”社員が萎縮する事態も起きた。私一人が空回りしていた。営業もしながら教えていたので、神経がすり減って物を食べる元気もなく夕飯のビールだけがエネルギー源。トイレに行っても何も出なかった。”

 

”でも、苦労が多ければそれだけ良いこともある、というのが私の考え。だから気長に育てた。社員には「努力すればいずれ光が当たってくる」と言い続けた。私を頼ってきた若者の雇用の場でありたいという気負いもあった。一人でも見捨てるようなら、次の子も育てられない。”

 

”基礎を身に付けさせるだけでなく、社員の自主性も重んじるようにした。自主性がなければ、会社の発展はないと考えた。新素材のシリコーンを使った靴の中敷きの開発も社員に任せた。”   

 

”「THINK」。当社の社是だ。社員は絶えず壁にぶち当たるけど、何かあった時は医師や患者から言われる要望やアドバイスに耳を傾け、解決策を自分で考えさせた。当社は営業と製造の部署を分けていない。効率は悪くても、作った人が直接患者と話すと、次のものづくりにも生きてくる。患者にも作った人の気持ちと商品の値打ちがよく伝わり、社員のモチベーションも上がる。”   

 

”若者を一から育てるのは、過疎化が激しい大森町を若者のパワーで元気づけたいという創業時からの思いもある。輸出をすると、うわさを聞いて若者が集まってくる。私は大好きな町とともに成長する会社を目指している。”

 

行政補助金をもらわず、利益を使って命がけで地域の再生をしている会社はあまりない。常識を打ち破らなければ地域の活性化はできない。”

 

”私の夢は、まだ3―5%ほどしか実現できていない。だが私は六十歳を迎え、会社も転換期を迎えている。残りは次世代が挑戦していく。私はスポイトで一滴を落としただけ。経営をバトンタッチするのは意外に早いと思う。これからは長男たちが私とは違う視点で、楽しく夢のある会社にしてくれると信じている。

 

・・・勉強になりました。