bunbunの記

カテゴリー クラブB&J、活動の様態、私的な事々、非日常的な、奇妙な偶然、その他

どうやら、私も変化のときのようですね(こんな日記を書くということは)

 

まずは、長い引用を・・・

 

『お釈迦様は八十一歳でお亡くなりになるまで、色々な所で大勢の人々に教えを説かれました。その教えを受けて、お弟子が次々に伝え、それがまとめられたのがお経です。

一口に八万四千のお経があるといわれていますが、これは直接お釈迦様の口から説かれたもの(小乗経典)ばかりでなく、お釈迦様の教えに従って、その教えをより深く説き明かしていってつくられたお経や、その注釈書など(大乗経典)がたくさん含まれています。

ですから、お釈迦様直接のご説法を伝えたものではありませんが、お釈迦様のお心を誤りなく伝えているということから、お釈迦様のご説法と同じように受け継がれてきているのです。

お経の始めは「如是我聞ーこのように私は聞きました」という言葉で始まっているのはこのためです。

釈迦様が入滅されてから、しばらくしてお釈迦様の教えを文字通り忠実に守ろうとした人々と、説かれた教えの心を生かしていこうとする人々に分かれていきました。

前の人々のことを小乗仏教とよび、お釈迦様の教えの心を中心にしていこうとする人々の仏教大乗仏教とよんでいます。

大乗・小乗の乗というのは、「乗り物」という意味です。

私達の迷っているこの岸から、悟りの彼岸に渡してくれる教えを、大きな乗り物に例えて「乗」というのですが、大乗は大きな乗り物・優れた乗り物、小乗は小さな・劣った乗り物という意味になります。

大乗に対して小乗というのは、大乗の人が小乗のことを軽蔑して言っているので、現在では、小乗という言葉を使わずに、部派仏教あるいは長老派仏教・南方仏教などとよんでいます。

大乗というゆえんは、人々はみな迷っている存在ではあるが、しかし、必ず仏になる種子を持っており、そして自分よりもまず他人の幸せを願って、共に仏様の教えに従っていこうとする菩薩の道を説くところから、「大きな・深い・より優れた教え」と名づけられたのです。

これに対して、小乗では、仏様はお釈迦様だけで、他の者は声聞とか、阿羅漢という位にしかなれないとする考え方です。 

小乗仏教では、綺麗に咲いている花を見て美しいと思うのは迷いであると説くのに対して、大乗仏教は美しい花を見て美しいと感じるのは迷いではない。しかし、その美しさに心をうばわれ、とらわれてはいけないと説くのです。

このように、小乗仏教は、人間の欲望などは迷いのもととして厳しく自分を律していくのに対して、大乗仏教は、物事にとらわれない、おおらかな心と、まず他人のことを考えようという、目を外に向けての立場をとります。

現在では、セイロンビルマ・タイなど東南アジア仏教国はだいたいこの小乗仏教系で、中国・日本などは、大乗仏教の教えを奉じています。』(あるホームページより)

 

今夜は、私が勤める病院の送別会でした。

 

私は明日の朝早く家を出なければならないので、午後8時30分には女房に迎えに来てもらうことにしていました。

 

その女房が迎えに来る時間の少し前にトイレに行くと、私の隣に、私の後輩の事務員と大学卒業後の臨床研修に来ている医師とが並びました。

 

その二人は、頭の形と、どこかお坊さんを思わせるような髪型までもがよく似ていました。

 

「二人はよく似ているよな。まだ見ぬ兄弟に出会ったようなもんだよなあ」と言うと、30も半ばになる私の後輩は、「よく言われます。でも、先生(研修医のこと)、僕よりひとつ上でしたっけ?」と言いました。

 

それから、私はその研修医にいろいろと質問をしました。

 

その研修医が言うには、大学は文化人類学を専攻し、タイに行って出家して托鉢をしたりして、卒後は製薬会社に4年間勤め、それから大学の医学部に入学して、今に至っている、と言うことでした。

 

タイは小乗仏教であり、戒律がとても厳しかったそうです。

 

女房が迎えに来るまでのわずかな時間、その研修医とそんな立ち話をしました。

 

・・・・・

 

明日は、娘の入学手続きと部屋探しに高知へ行きます。

 

研修医との話をする前には、病院長と話をしました。

 

「おめでとう。おいしい酒だろうね」

 

「いえ、酒は一昨日飲みすぎました。でも院長、お遍路さん高知ですからね。院長はどこまで行かれました?」

 

「もう高知は過ぎて愛媛まで行ったよ」

 

・・・・・

 

『そこで、年明けから、四国八十八箇所のお遍路にいくことにしました。全行程1.200kmを一気に歩くほどの休みはとれないので、数泊ずつの区切り打ちです。

広島徳島行きの高速バスに乗り、一番札所(霊仙寺)近くの停留所で降りると、バスは走り去り僕はひとり残され、やおら歩き始めると、その瞬間から不思議な感覚に包まれます。歩いているのはなんの変哲も無いはずの四国の大地です。なのに、人里の路地、田んぼのあぜ道、険しい山越え、あるいは波打ち際の遍路道を、歩いては読経、歩いては読経を繰り返すうち、体験したことの無いさわやかで新鮮な心象に包まれていきます。そして、ただ夢遊病者のように、なにも考えず(あるいは晩飯のことだけを考え)ひたすら歩き、般若心経を唱え、という旅が続きます。ある解説書によれば、出張でもなく観光でもなく、巡礼者として四国に踏み込んだとき、そこは地理的空間としての「四国」ではなく、曼荼羅世界としての「お四国さん」に変わるのだそうです。

ある2月の快晴の日、私は、23番札所から24番札所にかけての75kmにもおよぶ長い単調な海岸線を何時間もひたひたと歩いていました。いつまでたってもどこまでいっても左手は目がくらむほどの陽光あふれる太平洋、はるかかなたに霞む室戸岬は歩いても歩いても一向に近づいて来ません。

吉田拓郎の「今日までそして明日から」を繰り返し繰り返し歌いながら歩いていると、突然、説明のつかない涙がとめどなく溢れてきました。未体験の心的ゾーンへ突入です。呆然としました。それは、14歳のころ、生まれて初めて夢精したときに感じたようなワープ感に似ていました。なにが起きたんだ?! その不思議な未体験感覚に驚いて歩みを止めました。そして左手太平洋の真上に輝く太陽に向かい、大声で般若心経を唱えました。すると太陽はお大師様の幻影に変わり、その後光の中に「和顔施」の文字がうかびあがった・・ように思いました。「人は優しくなければいけない。優しくなければ人ではない」。

この場面はその後も何度も夢に見ました。日がたつにつれ、あるいはあれは夢だったのかとも思います。この強烈な体験から、この教え「和顔施」を座右においてこれからの残りの日々を生きていこうと思いました。邑智病院の中にもこれを掲げたいと思いました。そこで、私がその筆使いを尊敬してやまない友人(素人書家)にお願いしました。その友人が「すずりを磨ってはため息をつき、やっと筆をとって(友人談)」半年後に書き上げてくれたのがこの文頭の書です。なんとやさしく穏やかな筆致ではありませんか、言葉の持つ言霊がそのまま書相に表わされています。

この書を当院の2つの病棟をつなぐ渡り廊下に掲げました。廊下の角を曲がるといやでもこの書に出会います。そのたびに人は、「ああ、今日こそやさしい人間でいよう」と思うにちがいありません。医療人にとってもっとも大切なことではないでしょうか。』(私の勤める病院のホームページの院長ブログより)