bunbunの記

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イトウさん。

 

「イトウさん。昔はどんな仕事されてたんですか?」

 

「電話の工事してました」

 

「NTTですね。えーと、昔はなんて言ってましたっけ?」

 

電電公社

 

電電公社。あー、そうでしたね」


夕方の私が勤める病院の正面玄関のベンチでの会話。

 

入院患者のイトウさんは徘徊の気があり、今日も家の者が迎えに来るからと言って、勝手に病院の外へ出てしまっていたのです。

 

そこに出くわしたのが私で、看護師が「ちょっと力を貸してよ」と私に訴えたのがことの始まり。

 

駐車場にいるイトウさんに私が声をかけると玄関に向かって歩き出したので、私に力を求めた看護師がしめしめと笑顔を見せていたのもつかの間、正面玄関のところまで来るとイトウさんは「ありがとうございました」と我々に別れの挨拶。

 

「イトウさん、そう言わずに中に入りましょうよ」

 

そう言う私にイトウさんはやはり丁重にお辞儀をするばかり。

 

「仕事も終わったし、用事もないからしばらくイトウさんと一緒にいるよ」

 

そう言って、看護師を病棟に帰したあとの会話が冒頭のもの。

 

「イトウさん、暑いからもう中に入りましょうよ」

 

「イトウさん、ここにいるのも飽きてきましたよ。病室ではテレビ観たりするんでしょう?」

 

「イトウさん・・・」

 

ときおり院内に帰るようにと促してみるけれど、イトウさんは「はい」と言うばかりで動こうとしない。

 

やがて、若い看護師が病棟からやって来て、

 

「イトウさん・・・」

 

でもイトウさんはうなずくばかりで動こうとしない。

 

「まだ、いいよ。もう少しイトウさんと一緒にいるよ」

 

それから、またしばらくしてこれまでとは別の看護師二人がやって来て、

 

「イトウさん!・・・」

 

最後には病棟看護師長までやって来て、ようやくイトウさんは重い腰をあげて病棟に帰って行きました。

 

「やっぱり師長の貫禄だよね」

 

「いや、そんなことはないわよ」

 

「なんだか、イトウさんの様子をずっと見ていて思ったのは、ヤギを川まで連れて行くことはできるけど、その川の水を無理やり飲ますことはできない、って言葉でしたよ」


ヤギを川へ・・・

この病院に勤めるようになって10年近くが過ぎたけど、こんなふうにして入院患者のお年寄りと一緒に過ごしたことはありませんでした。

 

看護師たちは私に対して申し訳なく思ったかもしれないけど、私はよきひと時を過ごすことができました。

 

ね、イトウさん。