bunbunの記

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幸福感

 

「生命線ひそかに変へむためにわが抽出しにある 一本の釘」(寺山修司

 

いえ、浴槽に浸かって自分の手のひらを眺め、自分が子供のころとは違って、最近は手相で生命線がどうだとか言わなくなったものだと思いながら、ふと寺山修司短歌を思い出したのです。

 

そして、その思いから導かれていくようであった更なる思いは、まだ自分が20代のころに初めて読み、それからの20年あまりの間に何度か読み返した短編の書き出しである次の文章が、その思いがもつ感触により近いものだったのです。

 

「自分の生のさかんな部分はずっと過去のものだ、自然な衰亡の、すでに斜面なかばに立っている。その思いに生きていることを自覚するようになって、ある時が経つ。」(大江健三郎メヒコの大抜け穴」より)

 

・・・うーん、文学的に書くのもここまでが限界。

 

まあ、結局何を思ったのかというと、まずは引用した大江健三郎さんの文章を実感できる歳になったということ。

 

そして、そのことをちょっと受け入れられるようになったかな、ということ。

 

ところで、ブログでもすでに書いたように、一昨日のバスケで腰を痛めました。

 

その時には、たまにやるぎっくり腰のようなものだと思いました。

 

でも、翌日にはほとんどよくなり、3日目の今日は少し重いものを持ったりする作業もできました。

 

これまで何度か経験したぎっくり腰ならそうはいきません。

 

これまで激痛をともなうようなのはしたことはないのですが、それでもいつも数日間は生活に不自由をするようでした。

 

バスケでは中学生男子とゲームをしました。

 

なんだか妙なゲームでした。

 

やけに自分の体が動いていくのです。

 

思い出してもなんだか不思議な感じです。

 

そしてそのゲームを終えたとき、腰に痛みがあることに気が付きました。

 

これは不安なことではあります。

 

加齢による体の衰えによるものであるなら、また同じことを繰り返すかもしれません。

 

でも、行けるところまで行こうと思います。

 

自分自身の一部分の力だけでは、年齢的にもこれからますますやっていくことはできなくなっていきます。

 

ここでも自分のなかの、そして自分と自分の味方、そして対戦する相手さえも含んだ「みんな」の力が自分には必要になります。

 

どれだけ多様で微細で柔軟な「みんな」を実現することができるのか。(または、できないのか)

 

やれるだけやってみたいと思います。

 

今日は、私の職場である病院内において、やけにお年寄りたちの姿が気になりました。

 

歳をとるということは、そういうことなのか、と思いました。

 

そして、そのことをちょっと受け入れられるようになったかな、とも思うのです。

 

なんだか、すがすがしい気分なのです。

 

「明るい詩をおくれ、勉。雨戸閉めきった部屋の中で手探りしてないで、出ておいで。川が流れているよ、トンボも飛んでいるよ、十円玉が道端に落ちているよ、そうして時が過ぎてゆく。何が見える? ふりむいてごらん、背中ごしに。なんでもいい、見えたものをおくれ、眠り込むなよ。」(谷川俊太郎「対詩」より)

自動記述的に、思いつくままに書いたので、今日も脈絡不明の文章でした。

 

まあいいや、人生は謎ですからね。