bunbunの記

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公共

 

女房が購読している季刊誌に『こどもとしょかん』という「公益財団法人 東京子ども図書館」が発行している小冊子があります。

 

今朝、女房が昨年の秋に発行されたその「こどもとしょかん(127号)」のある記事を読んでみたらと言うので、読んでみました。

 

それは去年5月、韓国のヌティナム図書館という私立図書館で行われた韓日交流図書館シンポジウムで、その図書館を運営する財団の代表である朴英淑(パク・ヨンスク)氏が、『“公共性”に息を吹き込む想像力 - 韓国・一私立図書館10年の歩み』と題して行った基調講演の記録でした。

 

機会があればぜひ読んでみてください。

 

「与えられて保障される消極的な公共性ではなく、開かれた公共性を求めて」(同講演)、今もなお続けられている活動に感銘を受け、そして示唆されるようでもありました。

以下に、その講演記録より少し抜粋してみます。

 

なお、文中に( )書きされているのは、抜粋により不明瞭になった箇所を補足するために、私が付け加えたものです。



図書館の)活動をはじめて何よりも驚いたのは、子どもたちの力だった。勉強のできる優等生、発達障害の子、少年院を経て保護観察中の身である子、小学校だけ出て浮浪児になった子・・・・いろいろな子どもたちがやってきて、なんのこだわりもなく、ごく自然に遊んだ。

いつからか子どもたちは「(この)図書館でなら、なんでもうまくいくから不思議!」といいはじめた。図書館でなら本もすらすら読めて、絵もすいすい描ける。自分たちの力で演劇をやっても、アイディアがどんどん湧き上がって、ことがうまく進んでいくというのだ。

親たちにも変化があった。「教え過ぎが問題」であると知りながらも、親たちの願いは、本を1冊でも多く、しかも効果的に読ませることによって、学校の成績を上げ、作文の実力を磨きたい、ということだった。それが1年、2年とたつうちに、成績とか、読書感想文大会で入賞するとかといった、目に見える「効果」に執着しなくなった。子どもたちが、本に囲まれた遊び場で、思いっきり自由を楽しみ、その結果、徐々にのびのび、生き生きする姿を見て、影響されたのかもしれない。

依然として(この)図書館潜在的な利用者に留まる町の人々にも、活動の手をのばしたいと思ったのだ。子どもたちを(子供たちだけを)「対象」にして支援するより、おとなたちが夢見て、本を読む楽しみと出会うことが、結局は子どもたちに、より自由で豊かな環境をもたらすと思ったのだ。

こうして、図書館が生命をもった「ひとつの有機体」に育つ中から自然に出てきた要求と、最初から最も優先的な課題だった公共性を拡張したいという願いから、私たちは、遂に図書館の名前から「子ども」を取り除き、すべての人に開かれた図書館にすることに決めた。

ヌティナムでは、定期的にボランティアとして活動していなくても、返却された本を元の位置に戻すことからはじまって、利用者が手を出したくなるようないろいろな仕事を隠している。最初にそれに気づくのはもちろん子どもたちだ。もともと子どもは好奇心のかたまりで、なんでも知りたがり、触りたがって、なんでも「自分で」やりたがるものだ。

エプロンに勲章のように名札をつけて図書館を歩き回る子どもたちは、本の整理から靴箱の整理、清掃や花畑の管理、新しい本にカバーをかける仕事まで、一人前のボランティアとして活動している。行事があるときは、絵を描き、はさみで切って垂れ幕やポスターも作る。「こんにちは。2階へは行ってみましたか?赤ちゃんは私たちにおまかせください」と、精一杯かしこまった表情で話しかける。子どもたちは、失敗しながらも、自分の力を試し、そこから学ぶことで、大きな喜びを得、輝きを増していく。

私たちは公共性の可能性への期待をもって、私立公共図書館となることを選択した。図書館の名前の前に「私立」という修飾語をつけるということは、現実的な課題をいろいろと抱えるという意味だ。図書館は収入はないのに、毎年お金がかかるのだから、自ら底抜けの瓶に水を注ぐ道を選んだということになる。

図書館を大切なものだと思う人々や、図書館が底抜けの瓶である理由に共感する人々が増えてほしい。徹底した日常性と公共性をもつ図書館に寄付するという活動が活発化することは、福祉意識と寄付文化を一段階、否、完全に違う次元に引き上げることになると思われる。