雲南市で行われた高校演劇を観に行く。
昨年暮れに行われた中国地方の高校演劇大会の上位4校が雲南市に集結して、昨日今日と2校ずつが上演をした。
昨年の中国大会は、娘がいる高知へと向かう日に広島県の尾道市で行われたので、途中下車して初っ端の3校を観た。
その3校のうちのひとつは山口県の華陵高校で、去年の夏に行われた全国大会で最優秀賞をとっただけあって、とても素晴らしいお芝居だった。
これをやられたら他の学校はとても太刀打ちできないであろうと思いながら会場を後にして、その翌日の夜遅くに帰宅してネットで調べたら、華陵高校は入賞の4位のうちに入っていなかった。
今回は米子高校が目当てだった。
2年前にもこの雲南市の高校演劇フェスティバルに行き、その関連で当時は1年生であった米子高校演劇部のA君とツイッターでやり取りをするようになった。
そんなこんなのつながりで、2時間ほど運転して観に行った。
米子高校は、とてもシリアスな劇だった。
放射性廃棄物の捨て場に廃棄された人間たちのドラマ。
打って変わって、安来高校の「修学旅行」は、軽妙なお芝居だった。
修学旅行先の宿の同室の女の子たちのドラマ。
高校演劇を観る喜びは、その多様性にあると思う。
多様な姿のお芝居をいくつも観ることができる。
現に、昨年暮れの尾道では3つ観たし、今日も2つ観た。
当たり前のことだけど、そのどれもが全く違う。
これは素晴らしいことだと思う。
だけど、その違うものが評価されると言う。
その違うものを評価するものに評価されようとして演劇をつくる。
それでいいんだろうか。
演劇ってそんなもんなんだろうか。
評価するものを変えていくのが演劇のもつ力ではないだろうか。
そして、その評価するものとはいったい何なんだろうか。
それは、あなたと私というような狭いものではないのではなかろうか。
芝居を観るのは誰なんだろうか。