『学び合い』というものから始まったこのクラブなのですが、そこで私たちがやっていることはおそらくこういうことなのだと思うのです。
なお、クラブに当てはめるために、一部の語句を「〇〇」に変えています。
《 我々は意識的なことをしている時間より、無意識で行動をしている時間の方が圧倒的に長い。そして、その際も、ボディランゲージを雄弁に語っているのです。子どもはそのボディランゲージによって、その〇〇の「心」を見透かします。》
《『学び合い』は、そのボディランゲージを最大限に使っています。でも、そのボディランゲージを最大限に有効に使うためには、二つのことが大事です。》
《 第一は、見透かされる「心」が子どもを動かすにたるものであるか、ということです。》
《『学び合い』は「一人も見捨てたくない」と願い、「多様な人とおりあいをつけて自らの課題を解決できるようになること、その仲間を創ることが〇〇教育の意味」であり「学習者集団は有能である」という二つのことを理解さえすればいいと考えています。》
《 もう一つは、〇〇や子どもが規制された場ではボディランゲージは有効ではありません。『学び合い』では〇〇も子どももフリーな状態です。だから有効なのです。》
《 そのため、立っているだけで、賞賛と叱責のメッセージをシャワーのように全員に発することが出来ます。フリーの状態だから、子どもたちのことを見ることが出来ます。見れば、自ずとボディランゲージを発します。評価とは見ることなのです。》
《 無言だからこそ、〇〇の発するボディランゲージを、子どもたち一人一人が自分に置き換えて解釈することが出来ます。説明的な言葉にすれば解釈が狭まってしまう。禅宗の公案のようなものです。》