" 今朝、近所の私の小中高時の同級生が死にました。(この1年ばかりの闘病の末だったのです)
近くで暮らしていても、たまたま会えば話をするぐらいの間柄だったけど、今日1日ずっと、自分の何かが欠けてしまったような思いがしていました。
そして、また同時に ・・・ 『(死んでしまった)体は「物」になったことを実感しました。(でも)心は場所を定めず広がっています』 ・・・ 今夜、その同級生の通夜に行って、私も同じことを感じています。"
・・・フェイスブックのある投稿に書いた私のコメントを(一部手を加えて)ここにコピペしました。
彼はミニバスクラブの指導をずっとしていました。
闘病生活に入ってからも、杖をつきながら、ミニバスクラブの指導で体育館に通っていたそうです。
それだけが(自分の)楽しみだからと、言っていたそうです。
今夜は故人の自宅での身近な者によるお通夜(こちらでは仮通夜といいます)で、明日の夜はお寺でのお通夜があって、そして明後日は葬儀があるのですが、明日の通夜と明後日の葬儀は、仕事の関係などで行けません。
明日の夕方は、私がやっているクラブです。
彼がミニバスクラブで通っていたのと同じ体育館で、私はクラブをやっています。
自分の通夜よりも、お前のクラブのためにお前は体育館の方へ行けと彼は言っている、と私は勝手に考えています。
明日の通夜も、明後日の葬儀も行けないけれど、明日の火葬へのお見送りには、彼の自宅まで行こうと思っています。
今夜は、ちょっと飲みすぎました。