bunbunの記

カテゴリー クラブB&J、活動の様態、私的な事々、非日常的な、奇妙な偶然、その他

3月23日(火)~26日(金)

 

3月23日(火) 晴(働くと汗をかく気温)

 

水路の泥上げなどする。

 

 

3月24日(水) 晴

 

午後、蜂の仕事。

 

 

3月25日(木) 晴(気温高い)

 

1時頃まで蜂の仕事(始めたのは10時前)。その後、蜂場から川沿いの道を少し下って因原へ行く。

 

予定通り因原のコンビニで食べ物やビール(自分だけ少々)を買って、コンビニの真向かいの江の川沿いの堤防の桜並木がきれいだったので、そこで女房とプチ花見。

 

夕方からクラブ。誰も来ず。

 

 

3月26日(金) 晴

 

『私のシベリア抑留記 凍った大地に』(品川始)を読み終える。

 

映画『シンドラのリスト』(タイトルのリストって、今回この映画を観るまで長年に渡って作曲家のことだと思っていた)から始まって、学生の頃に買った『夜の霧』を再読して、さらには家にあった地元の人による体験記であるこの本を読むという、この冬だった。

 

午前、この秋からの広島菜の栽培についての説明会。

 

午後、広島菜の栽培計画を練り直す。

 

夕方、子供のうちの1人が帰省する。

 

 

 

3月20日(土)~3月22日(月)

 

3月20日(土) 曇のち晴、桜開花始まる

 

 

これからまた草刈りの季節が始まる。

 

場所によって違うけど、多いところでは年間に4回は刈ることになる。

 

あの重労働を少しでも楽にすることができないかと、ネットで調べた。

 

草丈が30cmまでに刈る。地面から10cmほどの高刈りをする。植生に応じた草刈りによって、管理しやすい植生にしてゆく・・・ 

 

雑草の根元から刈るのが世間一般のやり方だけど、必ずしもそれが良くはないようで、あるウェブサイトには高刈りのメリットとともに根元からきれいに刈ることのメリットとして、ふたつのことが上げてあった。

 

「(一時的に)きれいになる」

 

「(きれいにできたという)達成感がある」

 

それを読んで思ったのが、達成感を仕事の評価としない、ということ。

 

何事も、楽にできなければそれは本物ではない、という戒めとして。

 

 

3月21日(日) 小雨、軽い冬型

 

 

劇団一級河川『孤独を旅する短編演劇集』(2021.2.21 ビッグハート出雲)

脚本・演出 亀尾佳宏

 

島根県民会館の事業によりインターネットで配信されている動画で観る。

(公開4/18まで)

 

www.youtube.com

 

脚本・演出(そして出演)は、島根県三刀屋高校演劇部の顧問としての数度の全国大会出場、そして毎年行われる雲南市創作市民演劇の脚本・演出(そして出演)と活躍している、現役高校教師でもある亀尾さん。

 

先月21日に出雲市で行われた、島根県内の演劇人による3つの短編からなる演劇公演の動画です。演劇に関心がある人に、おすすめします。特に島根県在住の方々。この劇団はチェックしておく価値大ありです。

 

見終わって、ツイッターフェイスブックで宣伝をする。

 

夕方から、バスケ。

 

2ゲームやって、いつものように年配の自分は早退。

 

 

3月22日(月) 小雨のち曇りで寒い

 

 

歯科受診。歯石除去。

 

去年の10月30日の朝日新聞の見開き全面に、「数学体感教室」というタイトルの広告特集が載っていた。

 

「数学を学ぶ際に大切なことは何でしょうか。まず第一に、とにかく自分で問題を解いてみること。(中略)最適化の努力。相矛盾する条件の中で、一番良い解を試行錯誤で探していく。(略)いろいろな状況の中で、最大の効果を上げるにはどういう行動をとるべきか。(略)さらに数学の力で大事なのは、未来がどうなるかを予測していくことです。(略)予測ができれば、これからの対策がしっかりとれます」(広告記事の監修者:竹内薫

 

メビウスの帯】 【魔方陣】 【ガウスの計算方法】 【完全正方形分割】

四色定理】 【フィボナッチ数列】 【ピタゴラスの定理

【誕生日のパラドックス】 【エラトステネスのふるい】

【円周率】 【ピックの定理】 【オイラーの多面体定理】 【ケプラー予想

ゴールドバッハの予想】 【角の三等分問題】 【フラクタル

ABC予想】 【フェルマーの最終定理

 

「今回の広告特集紙面は、数学を肌で感じながらチャレンジができるお題がそろっています」

 

肌で感じるという具合で、頭は少しだけ使うチャレンジと、そのチャレンジの後にネットでそれぞれの内容ごとのコラムを読むことをこの3日間で行った。

 

これで、冬のうちにやっておきたかったことがほぼ終わる。

 

・・・

 

3月22日午後6時、このブログを書いているときに電話あり。

 

自分は還暦になるし、ポンタさんは逝くし、クラブは終わるかもしれないし・・・というその列に付け加えられるはずの某君が、いや、まだまだ終わらない、と電話口で言う。

 

内容は書かないけど、意外なことに驚き、そして勇気付けられた。

 

 

 

3月17日(水)~19(金)

 

今年の目標は、楽に仕事ができるようにすること。

 

たとえば、1時間かかっていた仕事が50分でできるように工夫すること。

 

 

 

3月17日(水) 晴れ

 

我が家の前には田んぼがあって、その田んぼの片側には水路と、水路に隣接する町道が我が家に向けて続いているのだけど、その町道アスファルトと水路のコンクリートの境目に沿って草が生える。

 

長い年月のなかで境目の段差に土がたまり、そのわずかな土に雑草が根を下ろしている。

 

雑草が根を張った土を鍬で剥ぎ取る。

 

この作業により、見た目がきれいになるだけでなく、これから始まる草刈りの労力が少しでも減ることを期待したい。

 

 

3月18日(木) 小春日和

 

午前、女房と蜂の仕事。

 

午後、昨日の作業の続き。(女房は蜂の仕事へ)

 

田んぼの横の道路は100m以上あるし、雑草はアスファルトなどのわずかな隙間まで根を張っているので簡単には終わらない。

 

 

 

3月19日(金) 晴れ

 

 

今年はいつもと違う圃場にしようと思っている。

 

ひとつめは、圃場の一辺に沿って2m幅の通路を設けて、肥料などを圃場の奥まで軽トラックで運ぶことができるようにすること。

 

ふたつめは、上記の通路と耕作地の間に幅が広くて深めの溝をつくって、雨水が効率よく圃場から排水されるようにすること。

 

みっつめは、耕作区画を正確な長方形にして、栽培計画および栽培箇所の計測などの手間が減るようにすること。

 

・・・ということで、巻き尺と長い紐をひっぱりながら長方形の区画を確定させたり(直角を図るのに、各辺が5mと12mと13mの直角三角形を使うなんて始めたやった)、その長方形の長い方の一辺に沿って管理機で溝を掘ったりした。

 

 

 

 

 

 

3月15日(月)~16日(火)

 

3月15日(月) 晴れ

 

「土を掘るといろいろなことがわかる」と先月の農業講義で習ったので、1圃場だけ掘ってみる。なるほど、おっしゃる通り、であった。

 

ポンタさんの逝去を知る。

 

 

3月16日(火) 小雨

 

合間合間に、1日をかけてブログを書く。(お気楽ブログの方)

 

村上”ポンタ”秀一というドラムをたたく人(以下「ポンタさん」)がいた。

 

就職して2年目の24歳のときに、遊びに行った広島市で、初めてポンタさんの演奏を聴いた。

 

街を歩いていて、たまたま入ったライブでのことだった。

 

変わった名前なので記憶していたし、その後にはポンタさんが日本を代表するドラム奏者であることを知りもした。

 

それから25年近くが過ぎたある日、ポンタさんがこの町に来ることを知った。

 

数年前に東京からこの町に移住して料理店を始めた人がポンタさんと知り合いで、ポンタさんが広島市でライブをやった後にその新しい店に立ち寄ることになり、どうせなら演奏もやろうということになったということだった。

 

ポンタさんがこの町に初めて来たのは、自分が48歳のときだった。

 

それは自分の活動の幅が広がり始めるころでもあった。

 

2歳違いの子供2人が順番に進学で家を巣立って行き、夫婦で何度もそれぞれが暮らす土地へと旅行をした。

 

矢上中年隊というシニアのチームができて(ゆるい)大会に参加するようになったのも、誘われてマラソンをするようになったのも50歳のときからだった。

 

自分で自由参加のクラブを始めるきっかけとなった『学び合い』の勉強会に、何回か県外まで出かけて参加したのもこの頃のこと。

 

「見守る保育」を行う県内の保育園の園長と知り合うことになって、園の見学や園が主催する研修会に参加したりもした。

 

そして、ポンタさんを初めとした多くの一流の演奏者が何度も来町して、その演奏を聴いた。

 

この町での最後のポンタさんのライブは自分が53歳の頃だった。

 

自分はその年を最後に30年間務めた仕事を辞めた。

 

その前後の年にそれぞれ大学を卒業した子供たちは自活を始めている。

 

 

去年の1月に養蜂の講習会に参加するために2泊3日で名古屋市に行き、そこでたまたま手にした市内のライブ情報のリーフレットで、2日目の夜にポンタさんのライブがあることを知った。

 

6年ぶりのポンタさんのライブだった。

 

ライブ終了後のサイン会の前に、少しだけポンタさんにご挨拶をした。

 

それが、最後だった。 

 

 

 

bunbun-h.hatenablog.com

  

 

1951年1月生まれのポンタさんは享年70歳。

 

1961年4月生まれの自分は還暦を迎える。

 

過去を振り返るとともに、節目ということを思いながらブログを書いた1日だった。

 

 

 

ポンタさん

 

1985年4月14日

 

広島市に遊びに行き、たまたま目にしたポスターに誘われてライブ会場のホールに入った。

 

その3人の演奏者のうち、ピアノの加古隆は知っていたけど、ドラムのポンタという人は知らなかった。

 

 

2009年11月23日

 

夜、Tさんから電話あり。

 

「来月に、村上”ポンタ”秀一が来るよ」

 

 

2009年12月8日

 

この島根の片田舎での、ポンタさんの初めてのライブ。

 

 

2020年1月15日

 

所用で名古屋市へ行き、ライブがあることを知る。

 

名古屋での2日目の夜、ライブ終了後のサイン会のときにポンタさんにご挨拶する。 

 

島根県邑南町から来ました」

 

「?」

 

「○○の大将がいて、Tさんがお世話していた・・・」

 

「ああ」

 

 

2021年3月15日

 

ポンタさんの逝去が公表される。(3月9日 逝去、享年70歳)

 

・・・

 

書き出してみると、10回もポンタさんの演奏を聴いている。

 

自分(1961)よりちょうど10歳年上(1951)なので、広島でのライブの時、ポンタさんは34歳。

 

一度聞いたら忘れることのない名のドラマーが、広くはないホールの後ろから客席の間を通って現れたことを記憶している。

 

それから25年の歳月が過ぎ、その間には、ポンタさんが数多くのレコーディング(その数1万4千曲超)やステージに参加している有名なドラマーであることを何かの折に見聞きしたし、近いところでは図書館で『ポンタボックス ザ・ベスト』というCDを借りてその演奏を聴いてもいた。[ 村上”ポンタ”秀一(ds)水野正敏(b)佐山雅弘(p)他 ]

 

2009年12月の初ライブから、当地での最後のライブとなった2014年9月までのおよそ5年間に、ポンタさんは8回もこの町や隣の町で演奏をした。

 

そのうちの5回は我が家から近い矢上交流センターで行われて、そのときには会場準備などを手伝ったので、本番前のリハーサルも聴くことができた。

 

報道によると、今から1年前の2020年3月27日に宮城県石巻市で行われたライブが最後のステージで、それはサックス奏者のユッコ・ミラーとのライブツアーであり、その後はコロナ禍の下、既往歴のあるポンタさんは音楽活動を休んでいたという。

 

その2ヶ月ほど前の、名古屋のライブもユッコ・ミラーとの共演だったので、ポンタさんの人生最後のライブツアーに出会うことになったのだと思っている。

 

 

 

 

① 1985.4.14 加古隆(p)吉野弘志(b)村上”ポンタ”秀一(ds) 紙屋町ヤマハホール広島市

 

② 2009.12.8 柴田敏弥(p)水野正敏(b)村上”ポンタ”秀一(ds) 矢上交流センター(島根県邑南町)

 

③ 2010.3.31 松岡直也(p)高橋ゲタ夫(b)カルロス菅野(per)村上”ポンタ”秀一(ds) 矢上交流センター

 

④ 2010.12.21 天田透(fl)坂井紅介(b)村上”ポンタ”秀一(ds) いこいの村しまね(島根県邑南町)

 

⑤ 2011.5.22 吉田次郎(g)坂井紅介(b)村上”ポンタ”秀一(ds) 悠邑ふるさと会館(島根県川本町)

 

⑥ 2011.6.22 山下洋輔(p)坂井紅介(b)村上”ポンタ”秀一(ds) 矢上交流センター

 

⑦ 2013.11.17 吉田次郎(g)Vana  Gierig(p)Ole  Mathisen(sax)坂井紅介(b)村上”ポンタ”秀一(ds) 瑞穂山村開発センター(島根県邑南町)

 

⑧ 2013.12.11 柴田敏孝(key)岡沢章(b)村上”ポンタ”秀一(ds) 矢上交流センター

 

⑨ 2014.9.7 小沼ようすけ(g)坂井紅介(b)村上”ポンタ”秀一(ds) 矢上交流センター

 

 2020.1.15 ユッコ・ミラー(sax)折重由美子(p)前田順三(b)村上”ポンタ”秀一(ds) スターアイズ(名古屋市) 

 

 

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追記①

 

中学生のときに井上陽水のアルバムを2枚持っていて、その中の数曲はポンタさんがドラムを叩いていることを、今になって初めて知った。

 

 『氷の世界』(1973)

  ・・・2曲(「はじまり」「桜三月散歩道」)

 『招待状のないショー』(1976)

  ・・・6曲(「Good,Good-Bye」「招待状のないショー」「今年は」

         「水無月の夜」「もう・・・」「結詞」)

 

追記②

 

ポンタさんの当町での初ライブの8年前、2日間の研修を広島市で受けたときの夜、街でポスターを見てあるジャズのライブに行ったのだけど、そのときのベーシストが同じ当町での初ライブのときの水野正敏さんだった。

 

2001.10.1  難波弘之(p)水野正敏(b)池長一美(ds)

 

広島市でプロのジャズ演奏を聴いたのは、ポンタさんらのライブと水野さんらのライブの2つぐらいなのに、しかも2人ともに遠い東京を拠点に活動している人だというのに、この偶然に驚いた。

 

 

3月14日(日)

 

3月14日(日) 曇時々晴一時雨

 

数年前に生け花を習い始めた女房は、週に1回の地元の教室とは別に、年に3回程度行われる研修会にも参加している。

 

9時、大田市着。

 

研修会に参加する女房と別れて、市内を歩く。

 

11時、研修会々場で女房と合流。

 

いつものお店で食事をする。

 

店に入るとすぐに、印刷して持参した世田谷の地図をマスターに見せる。

 

「住んでいたのは上町(かみまち)」

 

差し出した地図を見ないうちに、前回(そのときのブログ)この話になったときには出なかった地名をマスターが口にしたので、地図でもってその場所を確認する必要はなかった。  

 

 

帰宅して、地図に落としてみる。

 

薄いピンク色のエリアが自分の生活圏。(買い物したり、銭湯に行ったり、食事をしたり・・・)。

 

緑色の三角形の頂点が、自分の下宿と、自分の元職場の後輩であるYくんの下宿があったところ。(そのブログ

 

その三角形の右端が、自分の元職場の後輩であるMくんのお母さんの実家がある辺りで(そのブログ)、反対の左端がマスターの住んでいたところ。

 

(マスターが住んでいたところは、半世紀以上も昔のことで住んでいたのも1年半しかなく、仕事から帰えるのは暗くなってからだし、休日にはいつも新宿などに行っていたので、周辺の記憶はほとんどないのだけど、「上町」という地名と、世田谷通りから50mほど入ったところの世田谷線の踏切の横だったことは覚えているということなので、まず間違いはない)

 

全部が見事に自分の生活圏の中にある。

 

(黄色の逆三角形については、別の意味があるのだけど、今回は省略)

 

 

午後2時前に帰宅。

 

天気が回復しないので、予定の蜂の仕事は中止した。

 

 

3月13日(土)

 

3月13日(土) 雨のち曇

 

集落内外10数軒の農家で組合をつくって、トラクターを共同で所有するようになったのは、自分が中学生か高校生のころ。

 

その共同のトラクターで我が家の田んぼを耕すのは、大学を卒業して郷里に戻ったときからこれまでずっと自分がやっているのだけど、初めてトラクターに乗って田んぼに入るときには、近くに住んでいた叔父が横について操作方法を教えてくれたことを覚えている。

 

あれから40年近くが過ぎる間に、叔父は逝き、所有する機械はトラクター2台、乗用田植機1台と増え(逆に組合の構成員は減る)、数年前からは組合の代表に自分がなっている。

 

昨日、今日と、トラクターの数十ページにわたる取扱説明書の全部に目を通す。

 

先日、2台あるトラクターのうちの1台を買い換えて、その新しいトラクターの操作方法を組合の構成員に伝えなければならないこともあって、勉強をした。

 

次はこれも習っただけで使っていた乗用田植機の取扱説明書を読んでみようと思う。